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第50話 光の消えた朝

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-13 23:54:36

 一九八三年二月十八日の記録を閉じても、いのりはしばらく動けなかった。

 自分が生まれるずっと前。理人は午前二時十三分の湖で、意味も分からないまま「いのりの声」を聞いていた。

 偶然なのか。時間の残響なのか。それとも、ペンション調が最後に見せた奇跡だったのか。

 答えはない。

 けれど、そのページには続きがあった。

 二月十九日。

 翌朝の記録だ。

 ――湖、異常なし。

 ――鈴、異常なし。

 ――宿泊客、二名。

「急に普通」

 いのりは思わず笑った。

 その下には、すみえの字。

 ――理人が朝から湖ばかり見ている。

 さらに巌。

 ――仕事しろ。

 そして理人。

 ――してる。

 三人のやり取りは、あまりにも日常的だった。

 昨日、真夜中の湖に存在しない光が現れたというのに、朝になれば薪を運び、朝食を作り、客室を掃除する。

 人生とは、そういうものなのかもしれない。

 奇跡が起きても。

 大切な人と別れても。

 朝は来る。

 ページをめくる。

 一九八四年。

 一九八五年。

 一九八六年。

 宿泊客の名前。天候。修繕記録。料理の献立。

 時折、「時間違いと思われる客」という記載が現
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     一九九〇年七月二十三日。 予約表に記された「水瀬」の二文字を、いのりは何度も見返した。 巌の娘夫婦。 幼い娘、一名。「……お母さんだ」 八年後の一九九八年、母は再びペンション調を訪れ、理人に命を救われる。 けれど二人は、その夜が初対面ではなかった。 いのりは予約表の間に挟まっていた写真を取り出した。 夏のペンション。玄関前には巌とその家族が並び、少し離れた場所に理人が立っている。 その足元。 十歳にも満たない少女が、理人の手を握っていた。「お母さん……」 写真の裏には、短い記録が残されていた。 ――巌の孫。 ――変な子。「初対面の子どもに何書いてるのよ」 思わず突っ込んでから、続きを読む。 ――俺を見るなり、 ――「前にも会ったことある?」と聞いてきた。 いのりの笑顔が消えた。 その日の宿直記録も残っていた。 夕食後、少女は一人で受付へ来た。支配人になっていた理人は帳簿をつけていたらしい。『おじさん』『……まだお兄さんでいいだろ』『おじさん』『何だよ』 少女は受付台から顔だけを出し、理人をじっと見つめた。『前にも会ったことある?』『ないと思うけど』『ほんと?』『お前が赤ん坊の頃に会ってたら知らない』 少女は首を傾げたあと、不思議なことを言った。『夢の中にいた人に似てる』 理人の筆跡が、そこで一度止まっている。 いのりは息を潜めて続きを読む。『どんな夢だ?』『湖』『それから?』『暗いところに、光があるの』 理人は何も答えなかった。 一九八三年二月十八日。 真冬の湖に現れた、細い光。 あの記憶が脳裏をよぎったのだろう。 ――偶然だと思うことにした。 ――子どもの夢だ。 ――それ以上の意味を持たせる必要はない。「理人さんらしくなったね」 昔の理人なら、すぐに湖や鈴との関係を調べたかもしれない。 でも、この頃の彼は違う。 不可思議なものを見ても、それを理由に誰かの人生へ踏み込まない。 少女はさらに聞いた。『おじさん、ここにずっといるの?』『たぶんな』『待ってる人いる?』 今度は、長い沈黙があったらしい。『……いないよ』 いのりの胸が少し痛んだ。 嘘だ。 そう思った直後。 理人は言い直していた。『いや。違うな』『いるの?』『大切な人はいる。でも、待っ

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     一九八三年二月十八日の記録を閉じても、いのりはしばらく動けなかった。 自分が生まれるずっと前。理人は午前二時十三分の湖で、意味も分からないまま「いのりの声」を聞いていた。 偶然なのか。時間の残響なのか。それとも、ペンション調が最後に見せた奇跡だったのか。 答えはない。 けれど、そのページには続きがあった。 二月十九日。 翌朝の記録だ。 ――湖、異常なし。 ――鈴、異常なし。 ――宿泊客、二名。「急に普通」 いのりは思わず笑った。 その下には、すみえの字。 ――理人が朝から湖ばかり見ている。 さらに巌。 ――仕事しろ。 そして理人。 ――してる。 三人のやり取りは、あまりにも日常的だった。 昨日、真夜中の湖に存在しない光が現れたというのに、朝になれば薪を運び、朝食を作り、客室を掃除する。 人生とは、そういうものなのかもしれない。 奇跡が起きても。 大切な人と別れても。 朝は来る。 ページをめくる。 一九八四年。 一九八五年。 一九八六年。 宿泊客の名前。天候。修繕記録。料理の献立。 時折、「時間違いと思われる客」という記載が現れるものの、以前のように鈴を使って過去や未来へ送り返した形跡はない。 代わりに必ず書かれていた。 ――本人の希望を確認。 いのりは、その言葉を指でなぞった。「守ったんだね」 誰かを救うために、その人の人生を勝手に決めない。 何度も失敗して、何度も傷ついて、ようやく三人が辿り着いた約束だった。 一九八七年のページで、文字が変わった。 ――本日より、西園寺理人を支配人とする。「えっ」 いのりは顔を上げた。 続けて読む。 巌の字だった。 ――本人は断った。 ――却下した。「おじいちゃん強いな……」 余白に理人。 ――本人の希望を確認しろ。 その下に巌。 ――確認した。俺が希望している。 さらにすみえ。 ――多数決。二対一。「それ多数決って言わないでしょ」 地下室で一人、いのりは笑った。 でも。 その笑いは少しずつ涙に変わった。 理人が、生きている。 時間の狭間で誰かを待ち続けているのではない。 仕事をして。 巌と喧嘩して。 すみえに呆れられて。 客を迎えて。 年を重ねている。 自分が知らなかった理人の人生が、一ページずつここに

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    一九七三年七月二十三日。 床に落ちた封筒を拾い上げた瞬間、いのりは妙な胸騒ぎを覚えた。 理人が一九七二年へ戻ってから、ちょうど一年ほど。封筒の角は茶色く変色していたが、宛名だけははっきり読める。 ――水瀬いのりへ。「約束を破ろうとした夜……」 いのりは封を切った。 中には便箋が三枚。最初の一枚には、いつもの理人らしい文字が並んでいた。 ――いのり。 ――今日は、俺がお前との約束を破ろうとした日の話を書く。 ――先に言っておく。 ――結局、破ってない。 ――だから怒るな。「書き出しから怒られる前提なんだ」 思わず笑ったが、すぐに続きを読んだ。 ――去年の七月二十三日から一年経った。 ――ペンションはまだ完成してない。巌は予定より遅いと毎日うるさいし、すみえは予定なんか最初から無理だったと言っている。 ――俺は、その二人を見ながら笑えるくらいには、ここでの生活に慣れた。 ――だけど今日だけは駄目だった。 その先だけ、文字が少し乱れている。 ――七月二十三日になると、お前を思い出す。 ――いや、毎日思い出してる。 ――でも今日は、去年お前が未来へ帰った日だから。 ――会いたいと思った。 いのりは便箋から目を離した。「……私も会いたいよ」 声にしてから気づく。 それは五十四年前の理人には届かない。 分かっている。それでも、言いたかった。 ――夜中の二時前。 ――一人で湖へ行った。 ――月の鈴を持って。 いのりの指が止まった。 月の鈴。 時間を越えてきた人間を導く、理人の目印。 もう鳴らさない。 互いの人生を生きる。 そう約束して別れたはずだった。 ――もし鳴らしたら。 ――もしかしたら、またお前のいる時間へ行けるんじゃないかと思った。 ――一回だけなら。 ――顔を見るだけなら。 ――そんなことを考えた。「理人さん……」 責める気にはなれなかった。 自分だって、もし今ここに月の鈴があったなら。同じことを考えないと言い切れる自信はない。 ――午前二時十二分。 ――鈴を握った。 ――あと一分だった。 便箋の端に、小さな染みが残っている。 雨なのか。 涙なのか。 いのりには分からなかった。 ――その時、巌が来た。 ――何も聞かず、俺の隣に座った。 ――しばらくして、あいつが

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